赤石山系と石鎚・四国中央山系の歴史探訪
                    赤石山系と別子銅山史  深山幽谷 古の白滝鉱山
  花の百名山 深田久弥二百名山 赤石山系と旧別子銅山を訪ねて
四国宇摩地方と赤石山系の歴史について!!話は、元禄繚乱の時代・・・・・。
記載事項の一部は、住友金属鉱山株式会社・住友林業株式会社 旧別子銅山案内板を参照したものです。

銅山越・西山方面

赤石山系の歴史について
赤石山系の自然と歴史は、別子銅山との関わりが大きく、別子銅山の歴史をごらんいただけると理解できることと思います。

別子銅山の歴史
元禄3年(1690年)阿波出身(徳島県)の一抗夫により別子で銅鉱石が発見され、元禄4年大阪の泉屋(現在の住友)によって開坑される。
このときのの坑道が”歓喜間符(まぶ)”であるといわれている。

歓喜間符跡
別子銅山発祥の記念すべき最初の坑道で、工都新居浜発展の基となった所で市民の心に銘記されるべき地である。
















                           2002年修復された歓喜間符
修復前の歓喜抗坑道入り口
元禄3年(1690)坑夫長兵衛により嶺南に有望な露頭のあることを知らされた備中国(岡山県)の住友家経営吉岡銅山の支配人田向重右衛門らは、 苦心して山中を調査し、この付近で見事な鉱脈を探し当て翌元禄4年幕府の許可を得て9月22日に採鉱を開始した。
人々はこの人跡稀な山中において、抱き合って歓喜し開鉱を祝ったところからこの名がある。右は歓東間符で、上部一帯には山方という鉱夫の集落があった。

***この歓喜間符が、保存され、隣には歓東間符が復元保存されています。***

「注意」:右下の歓喜間符坑道入り口の写真は、修復後のものです。
修復された歓喜間符と歓東間符の坑口は、高さ・幅ともおよそ1.8メートルで、直径30〜40センチメートルの丸太を鳥居のようなマス状に組み立て、 その周りに小さい丸太材で補強し、さらに石組で囲んでいる。
また、坑道の入り口も整備され古の面影を再現している。


場所は、銅山越えより別子側に降り、途中牛車道との別れを直進(急勾配だが、近道)するか、のんびりと歴史をひも解きながら、牛車道下るのもいいでしょう。
(5月ごろであれば、この牛車道に沿って、栂桜(ツガザクラ)(日本の南限)の群生を見ながら下ると赤石山系にきた喜びも倍増されるでしょう)

***開坑前とその後、幾多の問題を抱えていたたのである。***
発見された銅山は、嶺南地区(赤石山系の南側)にあり、その地は天領といって徳川幕府直轄地であり、絶大なる権力が立ちはだかっていたのである。
したがって、当時の赤石山系は、人の手が入ることなく、原生林に覆われていたことと思われる。
そこで、泉屋(住友家)は、幕府から、今で言う採鉱権を得て銅の生産を開始したのである。
ただし、生産された銅は、別子の地から直線ルートで一番近い新居浜へ直接運ぶには、西条藩領内を通過しなければならず、 やむなく別子から銅山川−小箱越え(ハネズル山付近)−浦山(現土居町浦山)−北野−天満村(現土居町)のルートにて搬出しなければならなかった。



大和間符
元禄時代の古い坑道の跡で人一人がやっと通れるくらい狭いものである。
元禄8年(1695)、ここと立川銅山(別子開坑の60年位前から稼働していた苓北角石原(かどいしわら)側の銅山で当時西条領であった)の 大黒間符(だいこくまぶ)が偶然に貫通し境界争いとなって紛糾した。
大和間符(やまとまぶ)

のち立川銅山は、経営不振から宝暦12年(1762)になって別子銅山に吸収合併され住友家の経営に移った。

*別子銅山の隆盛栄華と衰退*

元禄4年開抗し、3年後の元禄7年には、およそ5,000人以上の人が銅山に携わるようになった。つまり家族関連の人を考慮すると、15,000から 20,000人住んでいたと考えられる。

***ここで、当時の産銅事業の仕事について簡単に説明しておこう。***
01.まず、銅鉱石は、銅の鉱脈に沿って採掘するのが当然であるが、別子における鉱脈(鉱床)は、水平方向1,500m深さ海面下1,000mしたがって 2,000m以上地下に向かっている。今もそれ以上の鉱床が確認されているが、採算に合わないため現在は、閉山している。 したがって、坑道を支える抗木の採取
02.採掘の作業・・・・・抗夫
03.地下作業のため、排水・給水・採火作業
04.坑内から地上への鉱石運搬作業
05.採りだした鉱石を撰鉱場への運搬作業(中持:なかもち)
06.金場(かなば=選鉱場)での鉱石の選別作業
07.選別された鉱石を製錬し、粗銅を取り出す。
08.精錬用木材の手配・供給(木方:きがた)薪炭の製造
09.銅の運搬(女:30Kg男40Kgを背負って天満の港まで山から搬出する。
10.そのた事務配給看護(病院)など多彩な間接業務。
   など小さな町を形成するに値する規模であったようである。


 別子銅山が開抗以前の赤石山系(法皇山脈)は、かつてブナや広葉樹の生い茂る動植物の宝庫であった。ところが、銅山の発展とともに赤石山系や周辺の山々が、 住居用・抗木・精錬用薪炭などの供給用として使用されるに至ったのは言うまでもない。
 特に銅の精錬用には、膨大な薪炭が必要だったようで、粗銅1ton精錬するのに薪炭5から10ton必要であった。
 元禄当時から、年間1,000ton以上の粗銅が生産され、明治に入るとその値は、3,000tonにもなったそうである。 したがって、これを薪炭に換算すると、おそらく5,000tonから30,000tonの木々が必要だったわけである。
 このような状態が、洋式精錬がはじまるまでのおよそ200年続いた。
いかに膨大な木々が採り出されたか想像がつくであろう。



1691
1694
1698
1707
1716
1748
1772
1800
1830
1844
1867
1877
元禄04年
元禄07年
元禄11年
宝永04年
享保01年
寛延01年
安永01年
寛政12年
天保01年
弘化01年
慶応03年
明治10年
192
553
1,521
1,101
674
639
414
557
509
441
416
862
1880
1888
1890
1899
1901
1903
1911
1916
1940
1946
1955
1969
明治13年
明治21年
明治23年
明治32年
明治34年
明治36年
明治44年
大正05年
昭和15年
昭和21年
昭和30年
昭和44年
総産出高(トン)
1,010
1,745
2,026
3,902
4,810
5,455
6,692
11,196
9,455
1,190
6,489
5,412
709,762


***緑の失われた赤石山系とその周辺地域***
この供給基地となったのが<赤石山系>で、西は、ちち山・笹が峰・寒風山・伊予富士、南は、冠山・平家平・三森山方面に至る広大な地域であった。
当時は、亜硫酸ガスや、煤煙により、銅山を中心に西赤石は、むろんのこと、伊予富士方面に至る地域の山には、木や草がなくなり、地肌をむき出した荒れた 山肌をさらけ出すようになってしまった。
また、一度失った山々に雨が降ると大量の土砂が、泥流となって、山肌にはりつくように建った住宅や商店などいっぺんに押し流し、すべてを失ってしまうことが 度々発生した。

旧別子銅山(嶺南=現在別子山村)の案内図


 木方部落跡
 左のマップ中・東側の山一帯を木方といい、道をはさんで上下に多くの焼鉱炉が、河原から上の樹林の中には建屋や住宅がびっしりと並んで建っていた。
正面にに見える石垣は(実際に行って確認してくださればよく理解できます。)明治25年(1982)目出度町から移転した重任局(じゅうにんきょ く=鉱山事務所)の跡であり、その左側には勘場(会計)が並んでいた。
目出度町と木方との間には足谷川を挟んで多くの橋や暗渠があり、橋脚の石積のみがここからよく見られる。
この先の谷が両見谷(りょうけんだに)つづいて見花谷(けんかだに)で下部の樹林の中には鉱夫の住宅が密集して建てられていたが明治32年8月の台風で 見花谷の部落は山津波によって下の川に流され多数の死者(全山で513名)が出た。

(住友金属鉱山株式会社・住友林業株式会社 旧別子銅山案内表示板による。)

このようなことから、亜硫酸ガスに汚染された山を再び蘇らそうと、柳・落葉松・その他色々植林されるようになり、ここに赤石山系の運命が変わってしまった ようである。


 つまり、<アカモノ><栂桜><オトメシャジン><コケモモ>など、信州高山帯・北海道などでしか見られない高山植物が 育つ環境が、出来あがったと思われる。もちろん、私のホームページタイトルになっている<特有の強風・やまじ風> 赤石山系特有の地質として、
1.二ツ岳から権現山・権現越えに至る地域:角閃岩地帯
2.権現越え・東赤石山・八巻山・前赤石山・物住の頭あたり:カンラン岩
3.西赤石山:角閃岩地帯
などいろいろな要素の相乗関係によって、南国にもかかわらず、高山植物の宝庫として、花の百名山として、全国各地から我が故郷の山へ来る登山者が近年多く なった。


一方生産された粗銅は、宇摩郡別子山から銅山川・ハネズル山小箱越えを通り、土居町浦山から土居町天満に至るルートの30数キロにおよぶ山々を通過しながら 運び出されていたのであった。
その後、幕府の大きなバックアップにて、他の藩の領地を通過する権利を獲得さらに、周辺銅山の採掘権の認知など、その生産が飛躍的に上昇し、幕府の財政を支 えるまで貢献したようであった。
このように、住友家の発展と、江戸幕府の存続の影に当時の赤石山系・周辺地域の日本経済に多大な貢献と利益をもたらした。

別子山村日浦登山口からおよそ10分ほど歩くと、鬱蒼とした林の中から突如として小学校跡・大劇場跡 の壮大な石積みと石畳の 階段が、古の栄華を彷彿させてくれることでしょう。

劇場(石垣の上)・手前小学校跡

劇場跡と小学校跡
 道ばたに残る長い石段は、上段が山林課と土木課の事務所兼小足谷(こあしだに)劇場の跡で、下段が住友別子小学校跡である。
 劇場は明治22年に建てられ、毎年5月の山神祭の3日間は、歌舞伎の名優をはるばる京都から呼んで、数千人の観衆をうならせたといわれる。
 明治6年(1783)小足谷に設立された小学校は、明治22年(1889)にここに新築され、30年には目出度町(めったまち)に分教場が設け られたが、大正5年(1916)廃校となった。
 ちなみに、明治32年(1899)3月末の在籍生徒数は男女合わせて298名、教員は7名であった。

さらに、明治時代の象徴的遺跡として、赤煉瓦でできたモダンな接待館跡・醸造場跡など数多く迎えてくれます。

接待館・醸造所跡

小足谷接待館跡
 明治の後半この煉瓦塀の中に接待館があり、山中を訪れる要人が宿泊したり、ここで各種の宴会が開かれたりしていた。
 これより少し沢寄りのところに煉瓦造りの煙突が立っているが、ここが小足谷醸造場跡で、明治初年より年間100kl位の酒と、後には醤油も造っていた。
 ここの酒は、鉱夫達に喜ばれ鬼をもひしぐ山男共もこの酒に酔えばたわいもなく横になってしまう所から、人呼んで「鬼殺し」と名付けたという。
小足谷部落は、大正5年(1916)別子採鉱本部の東平(とうなる)への撤退に伴い廃墟となった。


昭和43年閉山するまで別子山村と赤石山系のときには、日本の経済を支えたお金になる山から閉山後の人の心をいやす美しい山、 私にとって、四国の他の山より他の地域よりふるさとの<<赤石山系と伊予富士・平家平に至る山が一番好きである。 ・・・・おまけ・・・・法皇山脈(赤石山系)は、鉱物資源の宝庫ですが、銅のほかに、金・銀・クローム・鉄・マグネシュームが眠っています。

 また、歓喜抗の入り口前の広場の南側には、1996年(平成8年)5月17日住友家第17代家長 住友吉左衛門お手植えの檜”があります。(絶対に踏み荒らさないで下さい。)

住友吉左衛門石標


また、右側に(西方向)蘭塔場(らんとうば)が見えてきます。この蘭塔場は、災害による鉱山労働者の埋葬などに使われたものです。

蘭 塔 場

 蘭塔場
 蘭塔場とは、墓場のことである。元禄7年(1694)4月25日焼鉱窯(やきがま)からの飛火が折柄の旱天(かんてん)続きにたちまち燃え拡がり 山中の主要設備をほとんど焼きつくした。
 ここには当時逃げ場を失って山中に殉職した手代・杉本助七以下132名の犠牲者の霊を祀る墓所であったが、大正5年別子上部撤退にともない山根町 瑞応寺境内に移されそこに安らかに眠っている。
 この蘭塔場も毎年盆の供養が行われている。

元禄10年別子銅山の産出量が世界1位になったそうである。
さらに下ると”目出度町(めったまち)”の鉱山関係の面影があります。
近年閉山するまで赤茶けた岩肌が露出していましたが、自然の回復力により原型が少しづつ無くなっています。 さらに下って行くと、”住友別子病院跡”があります。
歴史を顧みながら西赤石山登頂ができるでしょう。

現在の住友発展の礎となった赤石山系は、今も住友林業が手厚く管理し、愛媛県自然環境保全地域に指定され伐採はおろか、 草木・木の実に至るまで持ち出しは一切禁止されています。
また、栂桜(ツガザクラ)周辺には、ロープを張っております。
絶対侵入しないでください。
私ぐらいと思うそのあやまちが大切な高山植物を絶滅させることになります。
後世にこの日本の南限のツガザクラなど貴重な高山植物を残そうではありませんか。