赤石山系と石鎚・四国中央山系の歴史探訪
                    赤石山系と別子銅山史  深山幽谷 古の白滝鉱山
 深山幽谷、古の白滝鉱山を訪ねて( Shirataki kozan )
[深山幽谷、白滝鉱山跡を訪ねて]

[面影]
私の故郷には、かつて"搬器"と呼ばれていた索道があった。(私の町では、"鍋"と呼ばれていた。)
その索道は、小学校のすぐ西側にあり、幼いころの私は、学校の窓越しに何となく眺めていた。
その" 搬器"は、法皇山脈の頂上あたりからゴロゴロと威勢よく音をなびかせながら、港の荷揚場でUターンし、また山に向かって止まることを知らないでいるかのごと く動いていた。(搬器は、ドラム缶を縦方向に半分に切断したようなもので、蒲鉾状の形をし、高さ30mから40mのリフトにぶら下がっていた。)

この光景は、昭和30年代の鉱山最盛期の出来事である。
この"搬器"を日本鉱業白滝鉱業所を起点とし、終点(中継地)の積出港近くから眺めていた。
当時の私は、知る由もなく、ただキラキラと黄金色に輝く石(土)を不思議そうに見つめていた記憶が残っている。



隆盛の白滝鉱山の展望

[白滝の位置]
白滝は、高知県中央の北部(高知県では嶺北という。)愛媛県赤石山系二ツ岳の南方、現在法皇湖の南の県境に近い四国山系の奥深い地域に標高約800mのところにある。

第二選鉱と周辺第一選鉱

[白滝の地名の由来]
なぜこの地名がついたのか。白滝の語源について調べてみた。
鉱山跡の広いグランドのほぼ中央部の山麓に、普通車がやっと通ることができるデコボコとした一本の道がある。 (後術するが、主に銅の産する鉱山)ここを800mほどのところに野地峰登山口がある。
この野地峰(1278m)は、鉱山の背後にあたり、山の頂上には、古い祠が残っている。
(笹尾根の頂上から、北には、法皇山脈や赤石山系西方遠くには、石鎚山系を眺望することができる。)
この祠を古の頃から、「白滝権現」と呼んでいたそうである。
また、ある一節によると、グランドの西側には、古い鳥居と階段があり、このあたりから、第二選鉱場に向かう道路の跡が残っている。
この近くに、一本の細長い断崖がある。
断崖に、露時や大雨になると、まるで長いスダレのように、大きな白い滝ができるところから、白滝の起源ともいわれている。(古老曰)

野地峰山頂と首無し地蔵
[白滝鉱山の歴史]
寛文年間、発見された大北川の鉱床は、幕府の承認がなければ採鉱できず、1699年(元禄12年)2月10日土佐四代藩主山内豊昌は、幕府に採鉱承認願書を提出、承認を求めた。
翌、藩直営の鉱山として開かれることとなり、1699年4月採鉱開始したが、予想に反し銅の産出が振るわず、わずか4ヶ月ののち、8月廃止した。
その後近隣の本川銅山は明治以降白滝鉱山に受け継がれ発展することとなった。

白滝鉱山は、吉野川の支流大北川、更に朝谷川を溯上し、古の野地口番所近く、現在の愛媛県伊予三島市と接する幽谷の地、高知県土佐郡大川村麻谷(朝谷)にあった。
1627年(寛文12年)この厳しい山麓に、銅や硫化鉄の鉱床が発見されもので、1815年(文化12年)に麻谷鉱山として、本格的に採鉱が開始されるに至ったのである。

この時代における採鉱は、困難を極め、奥深い四国山系から、法皇山系を経由し、大阪方面に運搬されていた。

戦国・江戸時代初期の鉱業は、金・銀を主としたものであった。
とくに、慶長から寛永年間が金・銀鉱山の隆盛期であり、この頃の金銀の品質、生産とも絶頂期であった。
しかし、金銀も採鉱され尽くし(当時の採鉱技術において)衰退するようになった。
これに代わり、寛文、元禄期には銅鉱業の勃興し、寛文年間に、秋田県の尾去沢銅山、貞亨には、足尾銅山などが最盛期にはいり、元禄年間には、近くの別子山に銅が発見された。 (当ホームページ赤石山系と別子銅山を参考にされたい。)

このころの鉱山は、土佐藩の流刑場として、多くの流刑者が送り込まれたそうである。
この流刑者には、重労働を強いられ、喧嘩や脱獄が頻繁に起こり、これれを鎮圧するため、土佐藩は「首切り」「耳そぎ」など厳罰で臨んだそうである。

現在の白滝鉱山は、明治以降の採鉱によって発展してきたもので、前述した高知嶺北における鉱山の集大成がこの白滝鉱山と言っても過言ではない。
白滝には、大川村の人口の約半分の2000人近くの人々が暮らしていた。
その殆どの人々は、鉱山に関係した労働者などであった。
当然鉱山には、遊技場、映画館、居酒屋、診療所、学校など、当時町にあった施設はすべて完備されていた。



第二浴場
また、鉱山関係者の子弟が、愛媛県の伊予三島や高知市内の高等学校に進学する際、日本鉱業は、その費用の一部を援助したり、高知市内には、従業員の子弟のために寮を建設し、 無償提供していた。
第二選鉱・プール跡と小学校跡
昭和47年頃の坑道が、標高800mの坑口から海面下116mにも達していたそうである。
また、地底を走るレールの総延長は、200Kmにも延びていた。
この鉱山の地盤は、比較的固く他の鉱山に対し、安全な鉱山であったといわれている。
それでも、昭和4年に日本鉱業に所有権が移って閉山までの43年間に、落盤事故などで50名の鉱夫の尊い命が失われた。
白滝鉱山で亡くなった人は、小高い丘の上にある「樅の木山」で火葬され近くの墓地に葬られた。

その後周辺に粗末な墓地が点在し、あまり供養されることなく、首塚が放置され夜な夜な幽霊が出没するうわさがあり、 昭和35年鉱山関係者によって、慰霊塔が建てられ供養されているそうである。

白滝鉱山で産出した鉱石は、黄銅鉱と硫化鉄鉱が、非常に固く結合しているため黄銅鉱を取り出すためドラムミルで325メッシュ以下になるようを磨り潰し、最磨鉱にした。
最磨鉱は、浮遊選鉱機という大きな円形のプールに入れ、薬品といっしょに攪拌した。
そうすると、表面に泡状の中から銅成分が抽出され、これをケーキ状にして銅を取り出した。
この銅を索道によって瀬戸内側の愛媛県伊予三島市寒川町に運び、ここから船によって精錬工場に運び出された。
また、一部は、JR貨物(旧国鉄)によって送り出された。

当時の駅舎近くの倉庫付近には、今もキラキラと輝くところがある。
(私の自宅から5分ほどのところです。)
(別子銅山では、現地で精錬を行っていたため山の木々が無くなってしまった。銅を精錬する際二酸化硫黄などの鉱毒が発生し、大きな公害が発生したが、この鉱山に限っては、 精錬工程が無かったため、大きな災害や重大な公害は、発生していない。
また、山の自然も別子鉱山ほど荒れるこたは、なかったそうである。
その後300年続いた鉱山は、昭和47年3月30日白滝会館にて閉山式が行われ閉山に至った。

[その後]
閉山後、2001年5月3日当時の鉱山関係者が、奥深い里に年に一度、慰霊のため全国から集まっている。

私も、従姉と同伴させてもらった。
これらを「山路風」に掲載しようと思ったのは、
1.今もこの白滝に住んでおられる大石文子さん宅をお邪魔し、当時を偲ばせる多くの資料の提供を受ける。
2.鉱石の積出港が、私の町にあったこと。その索道を見ながら育ったこと。
3.鉱石の処理が、別子銅山と異なった方法であった。
4.赤石山系と接点が多い。
この歴史は、文献や新聞報道にはあったが、現在では、その存在すら忘却となってしまうのがあまりのも悲しい気持ちになってしまった。

[インターネットにて配信し、残したい]
また、インターネットにて高齢となった全国の関係者にも今一度ご報告したいと思いここに掲載させていただきました。
俄か勉強のため間違っていることがあるかも知れません。ご一報いただければ、訂正いたします。
あるいは、ニュースがあれば投稿していただければ、再度修正、改訂し、掲載します。
白滝鉱山についていろいろ記述したいことがありますが、浅学のためごく一部のみの掲載となり、ストーリに欠ける点お許しください。
また、記事の一部は、朝日新聞昭和58年1月に発行。 大川村発行大川村史追録 昭和56年6月30日発行
を参考にさせていただきました。
資料の提供は、現在も白滝にお住まいの、大石様、従姉の西川様によるもので、校正など情報の提供もいただき御礼申し上げます。