「山路風」と「山路風山岳会」の仲間たちの登山日記


山路風登山日記
山路風ネットワークINDEXへ
 はじめに
 錦秋の涸沢と穂高連峰
 剱岳・立山連峰縦走記
 八ヶ岳縦走記
 石鎚東稜〜天狗岳直登記
 冬季石鎚眺望の岩黒登山
 厳冬の赤石山系縦走記
 家族との西赤石山紀行
 大森〜佐々連尾山縦走記
 二ツ岳〜権現越縦走記
 北穂〜槍ヶ岳縦走記
 くじゅう・坊がつる山紀行
剱岳と立山連峰縦走紀
室堂〜別山乗越〜剱山荘〜剱岳〜剣御前小舎〜立山連峰〜一ノ越〜室堂
2001.08.02〜2001.08.05

岩と雪の殿堂 剱 岳(2,998m)
[ 剱 岳 ]

北アルプスの名峰剱岳は標高2,998mで北アルプス(中部山岳国立公園)の山岳の中では最も険しく、 岩峰が剱のように突き立っていることから名づけられたといわれている。
剱岳山頂には、木造の祠があり、溯ること平安初期とおもわれる錫杖と槍の穂先や焚き火の跡が発見され、このころから修験僧(?)や行者の修行のため登頂していた。
このことから剱岳が「不動明王」にたとえられ信仰の対象となったのは、その山容の峻厳さからと思われる。

このように岩と雪の殿堂剱岳(八ツ峰)は、一般登山者を寄せ付けない厳しい山容である。
近世にはいり、登山道が整備され一般登山者が登頂できるようになったが、穂高連峰にくらべかなり時を経てからであった。
したがって、現在でも、アルピニストのめざすハイレベルな山岳であることには間違いないと考えられている。
剱岳は、立山連峰の中では最も急峻な山で、ロッククライミングの名所として数多くのアルピニストが挑戦してきた。登山コースはいろいろあるが、一般的には室堂から別山を越えて尾根づたいに入るコースと、上市町の馬場島から早月尾根を縦走して入るコースがあり、室堂から別山を越えて尾根づたいに入るコースが一般的である。


[ 立山三山]

立山三山(雄山3,003m、浄土山2,831m、別山2,880m)の一つで、雄山神社の峰本社がある雄山山頂には、毎夏、多くの観光客や登山者が訪れている。
かつては日本三霊山(富士山、白山)の一つとして修験者や行者の修行の地であった。
立山への開山は、古く平安の頃といわれている。
近年では、日本各地から一般観光客やツアー登山が多く、現在でも、地元の青少年が一度は雄山へ登るそうある。
雄山頂上からは、下方の雷鳥沢をはじめ、白山および後立山連峰・雲上のはるか彼方の富士山を望むことができる。
また、別山からの、剱岳と八ツ峰やチンネは、屏風のように迫って見えその風貌は、岩と雪の殿堂そのものである。。

 2001年08月01日 

南国の厚い一日のなかの仕事を終え、昨年からの予定していた剱岳登山決行を迎えた。
毎年穂高方面を中心にしたアルプス登山でしたが、念願の剱岳に胸を躍らせていた。


メンバーは、男性:2名 女性:1名 合計3名である。
今回は、メンバー厳選 (はやい話、厳しい山の触れ込みで参加者が少なくなってしまった。)

07:10PM 仕事を終え自宅を出発。
会社仲間のSさん宅へ向かう。
パジェロには、登山用具や最終泊の衣類など一式積み込み点検した後、土居インターに向かう。
およそ8時間で立山到着に予定である。
    土居IC〜大阪吹田JCT:3時間
    大阪吹田JCT〜敦賀IC:2時間
    敦賀IC〜立山IC経由立山駅:3時間

11:30PM 松山・高松自動車道、瀬戸大橋・山陽道、中国道、名神を通過し、米原JCTから北陸道に入る。
ここで検札のためダッシュボードを開く。
「あれっ、チケットが無い。」
助手席のSさんが騒いだ。
「確かに入れたんだけどなあ・・・・」
運転していた私もSさんに渡した記憶である。
いろいろ捜しているうちに、以前にも同じようなことがあったのを思い出した。
「そうだ。隙間から落ちたのかも・・・・」
,車に積んでいるドライバーを取りだし、カバーを開いてみる。
「あった?」
不安そうにSさんの声である。
「うん。あるみたい。」
内装の悪いパジェロだから3mmほどの隙間から落ちたみたいである。
やっとのおもいでチケットを取りだし、気を取りなおして出発。

 2001年08月02日
03:15AM 流杉PAに到着。
時間があるためここで仮眠をとることにする。
およそ1時間30分ほどの仮眠の後、立山ICに向かう。
立山IC5分程度だ。

04:50AM 立山ICを降りる。
ここから立山駅まで25Kmほどである。
30分から40分の道のり。
早朝の道路には、車がいない。
まるで、私たちのための道路のようである。
少しガスがかかっている。
田んぼのなかの一本道である。
当初富山ICで降りようか迷ったが、メールによる地元のかたの助言で立山ICに決めて正解であった。

05:30AM 順調に走行し、立山駅に到着。
車は、最終宿泊地の[立山グリンビューホテル]のご好意によりホテルの駐車場に止めさせていただいた。
できるだけ奥に駐車し、ここで途中で購入したコンビニ弁当で朝食を摂る。
立山のケーブルカーの始発は、6時であるが、次の便に乗車することにし、ゆっくり腹ごしらえをする。(7月20日〜8月31日まで運行)

あったかーい味噌汁を飲みたかったが、駐車場内のためペットボトルのお茶で我慢をする。
今回は、山小屋泊のためエマージェンシー用品や防寒着、撮影道具など持ちこむことにした。
ザックは、28リッターから40リッターを用意した。

06:30AM 立山ケーブル駅にてケブルカーとバスの乗車券を購入し、2便に乗車する。(片道:2,360円 往復4,190円)
ケブルカーはおよそ7分で美女平に到着。
美女平からは高原バスに乗り換え。
高原バスはおよそ50分で室堂に行けます。
高原バスでは、10キロ以上の荷物を持っている場合、車内持ちこみはできないようである。
別途料金で、トランクに積み込みとなっている。
07:40AM 室堂平に到着。
いよいよ立山・剱岳への出発だ。
バスターミナルの3階に向かいここが遊歩道への入り口である。
非常に整備された歩道を、みくりが池へと向かう。

かつて立山が噴火したときにできたといわれ、標高2,450mにある周囲630m、水深15mの高山湖である。
梅雨あけのさわやかな空と、立山の雄々しい姿を映し出す湖面は、神秘なコバルトブルーであった。

湖畔には、厳冬の寒さに耐え抜いた膝ほどの高さのハイマツの深い緑と、時折顔を覗かせる雪渓、ひとときの夏を精一杯羽根を広げたチングルマなどの高山植物が映し出され、 心憎いばかりの絶妙な配色に、感動を覚える。

               室堂平・地獄谷

ここで 「みくりが池」の由来について次のように記されていた。
「みくりが池」は、「三繰ヶ池」と称し、その昔、ある僧がご法度に背いて1度ならず、2度、3度と繰り返し泳いだ。
そこで、この池の宿る竜神の怒りに触れて沈んでしまった―という言い伝えが残っている。

周辺には、チングルマやヨツバシオガマなど群生し、さわやかに私たちを迎えてくれた。
みくりが池付近では思い思いにファインダーを覗いたいた。

夏とはいえ、雪渓が残るこのあたりも露で濡れた高嶺の花と池の淵の鬱蒼としたハイマツの木漏れ日が幻想的であった。


みくりが池:かつて立山が噴火したときにできたといわれ、標高2,450mにある周囲630m、水深15mの高山湖である。

10:30AM 左に大日岳、右に雄山・浄土山を見ながら尾根筋に沿って歩き眼下には、雷鳥平や地獄谷(じごくだに) (日本最高所の温泉で古くから立山信仰の中心的役割をはたしてきました。今もガスや水蒸気を噴き出し、不気味な音を立てています。) が白い噴煙をなびかせながら天空の舞のごとく消滅している。
まもなく剱御前小舎に到着。
ここでは、ビールや焼きうどんのを売っている小屋の従業員の愛想よくジョークを振りまいていた。
「お疲れさまー。」
「今日はどちらまで?」
小屋の従業員のこえがした。
「剱岳に行きますのでの直接剣山荘(ケンザンソウ)です。」
時間もあったのでどのルートを選択しようか考えつつ尋ねた。
「ここを左に行けばいいですね。」
小屋の従業員が、
「はい、約1時間で行けますよ。気をつけて」
「明日お邪魔しますから・・・・。予約いれてますから・・・・。」
「あっそうそうここの小屋とリンクしています山路風の大西です。」
私が剱御前小舎とリンクしていることを伝えると、
「あーおやじのホームページにありますね。覚えています。」
私も出しています。
(向山倫史=むかいやまのりちか さんのホームページは、
http://www3.gateway.ne.jp/~nori-m/ です。
帰って早速拝見した。
サラリーマン生活を離れ優雅に頑張っていらっしゃるご様子。
「2001年3月末日で7年間勤めた会社を辞め、4月から北アルプスは立山
の剱御前小舎という山小屋で働いています。
標高2760m!現在支配人をはじめ2人のスタッフとライチョウとイワヒバリ
と雪に囲まれ、5:00起床21:00就寝というような仙人のような生活をしてお
ります。ここで働くのは10月いっぱいですが、半年間山の暮らしや素晴ら
しい景色を雲上からレポートします。
その後、2002年1月から1年間ワーキング・ホリデー制度を利用(年齢制限
ぎりぎり)し、オーストラリアに行ってきます!」とのことである。
                      -向山 倫史さんのHPから -

10:45AM 「ぼちぼち参りますか。」格さん(笑)
剣御前の山を左に仰ぎながら雪渓に向かって進むことにした。
このあたりの雪渓は、盛夏とはいえ分厚い氷の塊となってずっしりと横たわっている。
山小屋の情報ではアイゼンは不要とのこと。
慣れた歩きで雪渓を横断する。
「やっぱり涼しく感じるね。」
黙々歩くお上さんの足跡を広いながら、黒ずんだ雪渓の表面を見渡した。
「大きい雪渓だね。」
「何メートルあるかしら」
「5メートル以上あると思うよ」
雪渓下から流水の音が聞こえる。
およそ10分歩いたころ、雪解け水の流れる沢にさしかかった。

「少し休んで行こうか?」
「出発してから間もないから休まないで行こうよ」
「そうだね」
11時30分には、剣山荘と尾根の別れに差し掛かる。
「どうしょうか?真っ直ぐ剣山荘に下る?それとも尾根からあの雪渓に行って降りる?」


私がみんなの意見を求めた。
「お花畑と雪渓の方にしたら」
「そうだね。」
みんなの意見がまとまったのでそのまま真っ直ぐ進むことにした。
約10分ほどで尾根(黒百合のコル)に出る。
太陽に照らされた眩いばかりの雪渓と、淡いピンクのコイワカガミ、白衣を纏ったチングルマ、幻想を漂わせた紫のハクサンフウロ、 頭を垂らしたクルマユリのコントラストが美しい。
ファインダーを覗きシャッターをきる。
「そろそろ行こうか?」
剣山荘はもうすぐである。
雪渓の雫が、小さなせせらぎとなって、登山道に沿って流れている。

12:15PM ゆったりとした足取りで剣山荘到着。
「いい時間だ。飯でも食べよう。」
「そうだね」
大空の下で弁当を広げた。
高地で食べるコンビニ弁当でも結構おいしい。
バーナは使用しなかった。
冷たいお茶がおいしい。
喉の乾きを癒しながらゆったりとした気持ちで食事を済ませ、明日の剱岳(標高2,998m)へのアタックと昨夜から仮眠しかとっていなかったので今日一日の疲れを癒す。
標高の高い山小屋にもかかわらず、剣山荘には、風呂がある。
雪渓が残る厳しい場所にもかかわらず風呂はありがたい。
夕方5時から2時間ぐらいが入浴可能タイムだ。
早速私たちも湯船に浸かった。
山男ばかりだが、とっても気持ちがいい。

07:30PM 食事も終え明日が早いので就寝は、7時30分。
「おやすみなさい。」
・・・・・Z・Z・Z・Z・Z・・・・・

 2001年08月03日
04:30AM 4時30分起床。
部屋(202号室)の住人は、私たちを含め総勢8名。
他の5名は、昨日夕食時に貰った弁当を持参し、4時までに出発し部屋の最後の住人となってしまった。
朝食は、5時。
昨日の疲れも取れ、清々しい気持ちで朝食を摂る。
食堂のテラスに出てみると、後立山連峰の鹿島槍ケ岳(標高は2889・7m)と五龍岳の中間あたりからご来光がとってもすばらしい。
今日の天気は、この半月で最高らしい。

05:50AM 出発は5時25分だ。外は、あまり明るくない。
高い難度の剱岳(標高2,998m)のため、スティックやピッケルは小屋に預け小屋を後にする。
だらだらとした小石の混じる登山道が剣山荘から続く。
早朝の剱沢から、さわやかな風が過ぎ去って行く。
歩くことおよそ25分、午前5時50分一服剱(標高2,618m)に到着。
一服剱は、20人ほど座れる広さの岩場だ。
ここでは、眼前に前剱が立ちはだかっている。
その風貌は、生あるもの全てを拒むように、まるで岩の屏風が幾重にも滝のごとく天を突き刺している。
この圧倒された光景を観たとき、後退りする気持ちになってしまいそうである。
この頂上あたりから剣山荘が一際小さく望むことができる。
剣山荘から見えていたのは、剱岳ではなくて一服剱の頂上付近だった。
気を取り直していざ出陣。(6時00分)

06:40AM 一服剱から武蔵コルを通過し、大岩の足場の悪い側壁を無難に越えると傾斜のきつい岩場を降下。
ここから前剱(標高2,813m)だ。
屏風のように急峻な登山道だが、足場はしっかりしている。
所々に大きな側壁の岩がある。
見た目より容易に前剱に登頂することができた。(午前6時40分)
一服剱から約40分で登頂することができた。
ここに来てやっと剱岳(標高2,998m)を眺望することができた。
前剱の頂上は、あまり広くなく眼前の剱岳をカメラにおさめるため数枚シャッターをきる。
ほんの数分ばかり立ち止まったのち剱岳に向うことにした。
ここから、また下りに入り、門・鎖場を通過し、平蔵の頭の出る。

07:10AM さらに下り、平蔵のコルに着く。
前剱から30分ぐらいだ。
時計の針は、7時10分を指していた。
もう少しで剱岳だ。
「きつい?」
女房に気遣い声をかける。
「だいじょうぶ」
明るい返事だったので安堵感を覚える。
Sさんは、合いも変わらず黙々と歩いていた。
いよいよ正念場の[カニのタテバイ]だ。
平蔵のコルでは、同じ部屋に泊まっていた夫婦が不安な面持ちでいるではないか。
そういえば、20分前にも4時に出発した3人のパーティーを追い越していた。
やっぱり私たちのパーティーが一番早くなってしまった。
私たちに先に登ってくださいって促された。
「じゃーお言葉に甘えて。」
「すみません。」

[カニのタテバイ(写真左)]は、80度から90度近くの垂直に近い岩壁が約40mほど続く一枚岩のコースだ。

まず、私が先陣。
最初の足掛けを確認した後、続く女房に手ほどきし、距離を離して後に続く。


思っていたより簡単だ。
”案ずるより生むが易し”5から6分で全員無事通過。

もう少しで頂上だ。
平蔵のコルから30分で念願の剱岳(標高2,998m)だ。

07:40AM 剱岳(標高2,998m)登頂。
2001年8月4日午前7時40分。
頂上は、祠の前?には30名程度の広さ後方でも20名の広さがある。
穂高連峰の槍ヶ岳とほぼ同じかやや狭い程度の頂上である。
頂上では、20名ほどの登山者で賑わっていた。
各自思い思い山行談議や頂上からの大パノラマを楽しんでいる。
私も剱岳神社の祠の前で剱岳2,998mと書かれた木片を持って記念の一齣として撮影していただいた。
「ここは2,998mだからこのくらいが3,000mか!」って両手を上いっぱい伸ばして撮影している登山者もいた。
「ここは、2から5名ほどのパーティばかりだね。」
「この山に限っては、ツアー登山はいないようだねえ」
「ツアーでも上級でないと・・・・」
私もそのクラスに入っていいんでしょうか?・・・・・・。
およそ20分後の午前8時00分下山することにし、持ってきたお茶で喉の乾きを潤す。
頂上は、上市町の馬場島から早月尾根と剱沢からのコースだが、ほとんど後者のコースが圧倒的に多く感じられた。



剱岳は、北アルプスの穂高岳、上越県境の谷川岳とともに、脊梁の岩場と断崖絶壁のスリリングなクライマーの憧れの山である。
特に夏山から初冬の登山は、一般の登山者にとって憧れの山となっている。
標高は2998mあり、頂上で万歳をするとその手は標高3000mになる勘定である。

剣岳は、その昔立山地獄の針の山として知られ、現代に入っても前人未到の山と思われていた。
明治時代に入って全国の地図の作成に携わった柴崎芳太郎が測量のため、数名の関係者を連れて困難を極め、、苦労のすえ山頂に登っった。
山頂には、錆びた錫杖や鉾があり、岩屋の間焚き火の跡まで残っていたそうである。
不思議に思いその後の調べで、平安時代の修験者が修行のため登頂していたのだった。
苦労の末登頂を果たし、我こそ最初の登頂者と思ったのが、なんとその昔に登頂していたなんて滑稽というよりショッキングだったことでしょう。
現在では、登山道も整備され、岩場や断崖には、鎖や梯子が備え付けられ、健脚者であれば日帰りも可能になっている。

08:00AM 下山開始。
暫しの頂上での楽しみにも別れを告げ、山頂を後にする。
およそ15分ほどで[カニのヨクバイ]にさしかかる。
私の前に若い男女の二人連れが、恐る々降りようとしている。
多分未経験者だろう。
20過ぎと思われる若い男性が、振るえながら鎖を手に足を下ろそうとしていた。
危険な場所とはいえ、無謀と思われる二人連れには呆れるばかり、後に続く仲間の女性には何の援助もせず、(する余裕がまったく無いといったほうが正解かも・・・・・)こわごわ降りていた。
私もたまらず、その女性に助言とバックアップをしてやり、何とかクリアーさせてあげた。
[カニのヨクバイ]の最初の一歩に考え込むっていろいろなホームページで紹介されている。
私の場合、最初の一歩より、最初必ず順手にした右手で鎖をつかみ、腰を掛けるようにして下の狭間の足場を確保するく。
身長の低い場合(足の短い=ごめんなさい(^_^#;)は、補助ロープで上半身を支えてあげるのも良いのでは・・・・・。
おかげで、[カニのヨコバイ]は、大勢の登山者で溢れていた。
[カニのヨクバイ]の鎖が、約1.5m下がったところが少し足場が良くなっている。
つづいて、ステンレスでできた5mほどの梯子がある。
同じパーティーのSさんは、仕事柄楽々とクリアした。
ここを過ぎ1週間前に南アルプスにいった友人に電話した。
 山頂付近での携帯電話データ: [ J-Phone では、通話良好であった。3本槍 ]
友人は、鹿児島にいた。
山の状況を簡単に説明し、下山中との報告を送った。

カニのヨコバイ

10:00AM 剣山荘に到着。
6時30分ころ出発の予定を、1時間早く変更したため昼食を剣山荘で摂るのを御前小舎にすることに同意を求める。
「お昼まで2時間もあるから御前小舎まで行ってもいいかなー」
「ここからどのくらい?」
「そうだねー。1時間から1時間半ってところかな。」
「じゃそうしよう」
「O K」
「剣山荘に来た道を引きかえすから。」
時間が充分あり、剱岳登頂の感激に浸りつつのんびりと登山道を散策しながら御前小舎をめざす。
散策しながらゆっくり歩いたため雪渓の涌き水まで50分かかった。
高山の雪渓は深い。
そこから沸き出でる水は非常に冷たく、濡らしたタオルで顔をなでる。
「つめたーい」
「気持ちいいね。」
「ゆっくりして行こうよ」
皆も慌てる様子がない。
15分ほど休憩をとる。
「今何時?」
私が尋ねた。
「11時過ぎよ」
「ぼちぼち行こうか・・・・・」
Sさんはとっくに準備完了。
私を待っていたようである。
「ごめん。じゃー出発」

11:30AM 剣御前小舎に到着。
「取りあえず腹ごしらえ」
ここには、生ビールもある。
ビールと焼きうどんを買いに行く。
「生ビールとうどんください。」
「はーい」
流暢な返事が返ってくる。
金髪の若い女性のようである。
「あんまり日本語上手なので・・・・・」
「日本人じゃーないよね。」
「私ニュージランドからここへステイしているの」
「あっそー」
ここに来て外国の方に日本文化の象徴”焼きうどん”を作ってもらうなんて・・・・・
でも結構おいしかった。
「ごちそーさま」
「どういたしまして」
「じゃーお気をつけて」
この様子をみていた向山さんが、
「おいおいお客さんなんだよ。今日うちにステイするの」
「ごめーん」流暢な日本語で返ってくる。
私が、尋ねた。
「チェックインできる?」
「大丈夫です。入って右に受付がありますから・・・・」
「わかりました。」
取りあえずチェックイン。
時間があるので、ここに荷物を置き別山に登ることにする。
明日は、別山の巻道わ通って真砂岳・富士の折立て・大汝山・雄山などの立山を通り一ノ越に行くつもりだ。
「お天気がよければ浄土山を回りたいんだけど・・・・。」
ひとりでぶつぶつ・・・・
その後の天気予報では、明日の午後から天気が悪くなるそうである

01:40PM 「それじゃーザックを置いて別山に行こう。」
「OK」
小屋にはザックを置き、カメラと少しばかりのキャラメルを持って別山に向かう。
30分で本別山(祠がある。)
稜線上に10分ほどで分家の?別山に着く。
これから先は、危険区域で立入禁止の指導票がある。
ここからの剱岳への眺望は、絶品。
数枚を写真に収める。
日当たりが良く風通しの良い場所を選び、ここでしばしの昼ねタイムだ。
靴を脱ぎ各自思い思いに体を横にした。
30分ほど休んだだろうか、時折ガスが下から昇ってくるようになった。
時間をみると3時過ぎとなっている。
夕食には早いが、ゆっくり降りれば4時になるだろう。

03:50PM 御前小舎に帰ってくる。
西の空には、かなり雲の塊が大きくなっている。
明日は、天気が悪そうである。
夕食を終え、明日に備えてお茶を確保する。
お茶は、1リットル100円で山の自然保護基金として寄付しているそうである。
夕食後、容器に名前を書き水とお茶に分類された箱に入れておく。
その後放送があり順次代引きとなりお茶をゲットする仕組みとなっている。
御前小舎は、別山乗越(別山と剱御前のコルにあり、水の確保が容易ではない。
したがって、ここの水は、飲料できないので注意のこと。
日が沈む頃やたらとガスってきた。
明日は、大丈夫だろうか。
一応内蔵ノ助山荘付近のルートは確認できている。

 2001年08月04日
05:30AM 起床。早朝の山並みには昨日の夜からガスっている。
6時の朝食を終えた後、防寒衣と、カッパ(レインウェアー)を羽織り、かなりの寒さにも耐えられる装備にした。
もちろんヘッドライトも用意した。

06:35AM 山頂小屋を出発。
視界は、20mほどしかない。
掛けていためがねに霧が容赦なく吹き付ける。
眼鏡が曇って見えない。
一層のこと取り外し、ポッケに収納した。
「今日は、いらないだろう。」
軽い近視だから心配はいらない。
およそ35分で別山の分かれに着く。
別山を迂回して小石の混じった泥道を歩く。

07:45AM 真砂乗越を過ぎ、真砂岳(2,861m)通過。
08:15AM 富士の折立(2,999m)
ガスが晴れる気配は一向にない。
それどころか、風力が増してきた。
瞬間拝見。即時退散。
08:35AM 大汝山休憩所到着。
ここでは、霧が晴れるのを期待し、20〜30名は待機していた。
小屋の中が、ヒータが入っている。
私も濡れた髪を乾かせる。
濡れたタオルの蒸気も真っ白になるほど気温が低下している。
10数度である。
ここで15分ほど休憩。
暖かいコーヒをいただき体を癒す。
大汝山(3,015m)を拝みいざ出発。
まもなく9時とはいえ、あたりはガスで暗く感じる。

09:20AM 立山連峰の中枢雄山神社と雄山山頂に到着。
ここでは、一般観光客やハイカーで足の踏み場もないほどだ。
数枚の写真撮影した後、長居無用で下山することにした。

09:40AM 雄山をあとにし、一ノ越経由室堂平をめざす。
通常なら平易な登山道であるが、軽装の一般の観光客やハイカーが雄山神社を目指し、怒涛の如く押し寄せてくる。
その様は、まるで、戦争映画に出てくる歩兵隊の攻撃隊のようであった。
この光景は、一ノ越まで続いていた。

10:30AM 一ノ越山荘に到着。
ここで用を足し、10分程度休んだ後、室堂平をめざす。

11:05AM 室堂平の高原バスターミナルに到着。
通常12時発美女平行きの高原バスに乗車するつもりで搭乗口で待っていたところ、臨時バスの運行が発表され、11時30分に乗車することができた。
「ラッキー」
バスに乗り数分後雨が降りだし雨脚が激しくなった。
間一髪雨に遭遇することなく無事ホテルに帰還できた。
今日は、立山駅近くの温泉ホテルの[グリンビュー立山]にてゆっくり休むことができそうである。


[雄山神社ホームページの御由緒]では、下記のように説明されています。(抜粋)

文武天皇の大宝元年(701年)景行天皇の後裔(こうえい)越中国司佐伯宿袮有若卿の嫡男有頼公が白鷹と黒熊に導かれ立山の玉殿の岩窟に於いて立山両権現より 「我、濁世の衆生を救わんがため此の山に現わる。あるいは鷹となり、或いは熊となり汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり。」 と言う霊示を受けて開山されたのが霊峰立山である。
峰本社は北アルプス立山連峰の中心、立山峰の雄山山頂(3003m)に鎮座し、古来富士山、白山とともに日本三霊山として全国各地から信仰されてきた。
しかし、屹立した巌上にあるこの峰本社には冬期間は雪深く登山することが至難であったので、山麓芦峅、岩峅に社殿を建て年中の諸祭礼を怠りなく奉仕したと伝えられている。
この立山を神山と仰ぐ立山中宮芦峅の地に、立山の雄山神(立山大宮)、剱岳の刀尾神(立山若宮)の両権現を奉斎する根本中宮をはじめ、壮大なる神社仏閣が建立された。 有頼公自ら立山座主としてこの芦峅寺に居を定め、立山信仰の弘宣に生涯を捧げられた。
以来、神仏習合の一大霊場として皇室をはじめ武将名門の崇敬を受け、元明天皇、後醍醐天皇の勅願所であり、清和天皇貞観5年、宇多天皇寛平元年に叙位せられ、 平安期の後白河法王御撰の梁塵秘抄には「験仏の尊きは先ず東の立山」と、全国著名の霊場の冒頭に書かれている。 また、「越中国一宮」と鎌倉時代の安居院神道集に誌され、同じく鎌倉時代の拾芥抄には、「雄山神社は新川郡葦峅寺にあり」と銘記されているように、 一般民衆の信仰も大変篤かった。
鎌倉幕府足利歴代将軍が文治元年諸堂を造営して深く崇敬し、室町幕府足利歴代将軍、越中守護代神保長誠公、佐々成政公等々、 殊のほか保護造営されてきた霊場も天正13年8月富山城主佐々成政征討のため越中に軍を進めた豊臣秀吉により、当芦峅寺がことごとく焼き払われ、 以前の諸堂をほとんど失った。・・・・・